長嶋茂雄のプロ野球現役時代17年間を画像79枚と共に振り返る
『ミスタージャイアンツ』『昭和のプロ野球界のスーパースター』として日本のプロ野球界だけでなく、その独特のユーモアセンスと明るいキャラクターで世間一般でも愛される長嶋茂雄さん。
現役時代は言うまでも無く、現役引退後も監督としての活躍ぶりは誰もが知るところの知名度はもはや説明不要ですね!
現役時代を直接見ていない世代にとっての長嶋茂雄さんはどちらかと言うと『面白い人』『記憶に残る選手だった』の印象が強いかもしれませんが、『現役時代の長嶋茂雄さんって実はこんなにスゴイ選手だったんだ!』と思えるよう、長嶋茂雄さんの現役時代の成績を画像と共に振り返ってみました。
現役時代を直接見ている人も、ぜひ当時の懐かしい画像でお楽しみください!
※長嶋茂雄さんは誕生日が2月20日の早生まれなので年度で考えれば1歳若くなりますが、長嶋さんの年齢に併せて表記しています。
また、『長嶋』『長島』と2通りの表記がありますが、ここでは『長嶋』で統一しています。
1958年(プロ1年目・22歳)
入団1年目の長嶋茂雄さん、早速打点王・本塁打王を獲得して新人王に輝きベストナインにも選ばれました!
ちなみに、新人王と打点王との同時受賞は史上唯一と、この時点で既に長嶋茂雄さんのスター性を感じさせられますね。
本塁打がリーグトップの29本、これも素晴らしい成績なのですがそこは長嶋茂雄さんらしい(?)エピソードがありました。
9月19日に行なわれた対広島戦(後楽園球場)で新人記録となる28号本塁打を放ったのですが、一塁ベースを踏み忘れて本塁打が取り消しになりました。
※この時の記録はピッチャーゴロ
ですがそこで終わらないのが長嶋茂雄さんで、翌9月20日の対大阪タイガース(現・阪神)戦で28号を打ち直し新人本塁打プロ野球新記録を達成しました!
ちなみに、もしこのベースの踏み忘れがなければ新人としても巨人の選手としても、唯一のトリプルスリー(打率3割・本塁打30本・30盗塁)の記録を達成していたはずでした。
何とも惜しいところですが、1年目で既に伝説(?)を作りましたね(笑)。
打率 | 打点 | 本塁打 | OPS | タイトル |
0.305 | 92 | 29 | 0.931 |
|
※太字はリーグ最高(タイトル獲得)
1959年(プロ2年目・23歳)
『2年目のジンクス』とよく言われますが、長嶋茂雄さんはそんなジンクスを吹き飛ばすほどの成績を残しました!
打率3割3分4厘と、しっかりと首位打者を獲得してチームに貢献しています。
※太字はリーグ最高(タイトル獲得)
1960年(プロ3年目・24歳)
2年連続で首位打者・ベストナインなどのタイトルを取得した長嶋茂雄さん。
この年も長嶋茂雄さんの印象的なエピソードがありました。
- 7月17日の大洋ホエールズ(現・DeNA)戦で敬遠球を打ちにいってランニング本塁打を記録
敬遠球を打ってしまうだけでなくそれをランニング本塁打にしてしあうあたり、長嶋茂雄さんのバッティングへの積極性が伺えますね! - 三角ベース事件・第1回目
『一塁走者として走塁していたが後続打者の外野フライにより二塁を回った地点から帰塁する際、二塁を空過して一塁に帰る』ものです。
第1回目・・・とあるように、長嶋茂雄さんはこのプレーを3回やらかしていました(^^;)
ただ、これで終わらないのが長嶋茂雄さんのスゴイところで、相手チームの三角ベースも3回発見しているという偶然にしては神がかった『3づくし』ですね。
打率 | 打点 | 本塁打 | OPS | タイトル | CM |
0.334 | 64 | 16 | 0.964 |
| 名糖ホームランバー(販売促進用ポスター) |
※太字はリーグ最高(タイトル獲得)
1961年(プロ4年目・25歳)
プロ4年目となる1961年の長嶋茂雄さんは、2冠王(首位打者・本塁打王)の他に最優秀選手(MVP)も獲得しました!
成績だけ見るとそうは思えないのですが、どうやらこの年の長嶋茂雄さんは一時期調子を落としており、9月に入って調子を取り戻したそうです。
ここでも長嶋茂雄さんらしい豪快(?)なエピソードがありました。
バッティングのポイントについて記者に説明したいわゆる『金玉ポイント』です(笑)。
長嶋茂雄さんはこのように説明していました。
『X字のラインで打つと、ポイントが金玉の上にくるのです。これが理想ですね。それがO字だと前にポイントが出る。前に出ると苦しいから、どうしても顔が上がる。』
※参考記事:週刊ベースボールONLINE『ポイントは金玉の上?/『週ベ60周年記念企画184』【1961年10月9日増大号】』
長嶋茂雄さんらしく、何ともストレートな表現ですね(笑)。
打率 | 打点 | 本塁打 | OPS | タイトル |
0.353 | 86 | 28 | 1.108 |
|
※太字はリーグ最高(タイトル獲得)
1962年(プロ5年目・26歳)
この年の長嶋茂雄さんは個人タイトルは逃しています。
それでも最多安打を記録していることと、打点・本塁打数ともに1961年と大差ないので不調という訳でもなさそうです。
打率の0.288はこの5年間では一番低い数値ですが、そもそも昨今のプロ野球界を見渡せば『レギュラーなのに打率は1割台(←特にキャッチャーに多かった印象あり)』『2割2分いけば良い方』という選手もいるので長嶋茂雄さんの打率の基準の高さが改めて感じられますね!
打率 | 打点 | 本塁打 | OPS | タイトル |
0.288 | 80 | 25 | 0.876 |
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1963年(プロ6年目・27歳)
日本一に大きく貢献し、セ・リーグでのMVPだけでなく日本シリーズでもMVP(正式名称は最高殊勲選手)に輝きました!
また、カルピスの贈答用ポスターに掲載されたりと野球以外でも長嶋茂雄さんの人気ぶりが伺えました。
※太字はリーグ最高(タイトル獲得)
1964年(プロ7年目・28歳)
1964年の長嶋茂雄さんは、おめでたい出来事が2つ・あまりおめでたくない出来事が1つありました。
【おめでたい話題】
- 6月20日の国鉄スワローズ(現ヤクルトスワローズ)戦で1000本安打達成
- 11月26日婚約発表
まずは節目となる1000本安打達成です。
7年目(しかもシーズン半ばなので実質6年半)で1000本なので、1年目から毎年約150本ペースでヒットを打ってきたんですね!
2022年のペナントレースで例えれば、143試合(交流戦含む)全て出場したとして1試合に必ず1本はヒットを打っていたことになります。
そしてもう1つは、婚約発表です!
10月に開催された東京オリンピックを王貞治とともに報知新聞の特別記者として取材した時に西村亜希子さんと知り合い同年11月に婚約を発表、翌1965年1月26日にホテルニューオータニで挙式しました。
既にプロ野球界でスーパースターになっていた長嶋茂雄さんの婚約発表ですから、相当大きな話題になったのは当然と言えば当然ですね。
【おめでたくない(?)話題】
- 三角ベース事件・第2回目(^^;)
『一塁走者として走塁していたが後続打者の外野フライにより二塁を回った地点から帰塁する際、二塁を空過して一塁に帰る』ものです。
1960年に続き、第2回目となるこのプレー。
第1回目でも述べましたが、これで終わらないのが長嶋茂雄さんのスゴイところで、相手チームの三角ベースも3回発見しています。
打率 | 打点 | 本塁打 | OPS | タイトル | CM |
0.314 | 90 | 31 | 1.017 | ベストナイン | 三共製薬『ビオタミン』※2009年製造中止 |
1965年(プロ8年目・29歳)
プライベートでは1月26日に結婚式を挙げ、身を固めたばかりの長嶋茂雄さん。
8月18日の中日ドラゴンズ戦では節目となる『1000試合出場』を達成しました。
また、この年のジャイアンツは2位の中日ドラゴンズに13.0ゲーム差を付けてセ・リーグ優勝、日本シリーズも制してここからV9時代が始まりました。
1966年(プロ9年目・30歳)
30歳・9年目でそろそろベテランと呼ばれるクラスになりつつある長嶋茂雄さんですが、まだまだバッティングの勢いは止まりません!
3年振りの首位打者獲得の他、ペナントレース・日本シリーズともにMVPを獲得するなどシーズン通して活躍しました。
打率 | 打点 | 本塁打 | OPS | タイトル | CM |
0.344 | 105 | 26 | 0.999 |
| 三共製薬『ビオタミン』※2009年製造中止 |
※太字はリーグ最高(タイトル獲得)
1967年(プロ10年目・31歳)
この年の長嶋茂雄さんは入団以来初めて打率ベストテンから漏れるなど、不調のシーズンでした。
打率の2割8分3厘ならそれなりの数字だと思いますが、長嶋茂雄さんのように常に3割を売っている選手ともなるとやはり基準が高くなってしまうのですね(^^;)
打率 | 打点 | 本塁打 | OPS | タイトル |
0.283 | 77 | 19 | 0.802 | ベストナイン |
1968年(プロ11年目・32歳)
この年の長嶋茂雄さん、三角ベース事件・第3回目を達成(?)してしまいました(苦笑)。
三角ベース事件・・・一塁走者として走塁していたが後続打者の外野フライにより二塁を回った地点から帰塁する際、二塁を空過して一塁に帰ること
ですが、打率3割台はもちろん、125打点・本塁打39本という素晴らしい成績をきちんと残しています。
ちなみに、1968年の9月18日に今でも語り草となる大乱闘事件が起きました。
3日間で4試合(2日目がダブルヘッダー)という超ハードスケジュールの3試合目で、バッターボックスの王貞治氏への危険球がきっかけでした。
- 当の王貞治氏はマウンドへ歩き出して注意しただけだったが、荒川博コーチが阪神のバッキー投手に蹴りを入れる
- バッキーが右ストレートで反撃
- 乱闘に発展
- その直後交代した阪神・権藤正利投手が王さんに頭部へ死球
- 王さん担架で運ばれ再び乱闘勃発
- 次の打者だった長嶋茂雄さん、ダメ押しとなる3ランを放ちこの試合勝利する
この試合数の後の長嶋茂雄さんのセリフがこちらです。
『冷静だったというわけじゃないんだ。腹の中にはバッキーへの怒りがあったけど、あのもみ合いの中に入っていく気はなかった。
ワンちゃんが死球で倒れた後、その怒りを変な形でぶつけちゃいけない。野球選手の怒りはゲームの中で表現しなくちゃね。そういう意味じゃ、あのとき俺燃えてたね』
ホームランという形でゲームを決めたあたり、さすがは長嶋茂雄さんですね!
※参考記事:週刊ベースボールONLINE『蹴って、殴って、どっちも痛かった? 阪神・バッキー対巨人・荒川博コーチ(前編)/週ベ回顧』『ちょうど52年前。GT決戦の長い歴史で最も長い2日間/プロ野球20世紀・不屈の物語【1968年】』『ワンちゃんのためにも! 長嶋茂雄、怒りのホームラン/週ベ回顧』
打率 | 打点 | 本塁打 | OPS | タイトル |
0.318 | 125 | 39 | 1.011 |
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※太字はリーグ最高(タイトル獲得)
1969年(プロ12年目・33歳)
1969年の長嶋茂雄さんは2つの記録を打ち立てました。
- 1000打点:5月4日大洋ホエールズ(現・DeNA)戦
- 1500試合出場:8月17日大洋ホエールズ(現・DeNA)戦 ※史上29人目
また、日本シリーズでもMVP・打撃賞を受賞するなどシーズン通して大活躍の1年でしたね!
記録の素晴らしさはもちろんですが、シーズン前の宮崎キャンプでの『夜間練習』が話題になりました。
長嶋茂雄さんと年の近い方なら当時の様子をご存じかと思いますが、長嶋さんと同世代の親から『長嶋茂雄さんは畳の上で素振りをしていたそうだけど、畳がすり切れていた。その位、相当な努力をしていたんだよ』と聞いた事があります。
※親や巨人ファンではありませんが、長嶋茂雄さんの事は尊敬していました。
『長嶋は憎らしいほどよく打つけど、あれだけのバッターだからしょうがない。本当にスゴイ選手だった』と言っていました。
そんな親は中日ドラゴンズが好きでしたが(笑)
スーパースターだから打てる、と言うよりもスーパースターになるだけの想像を絶する練習量をこなしていたからこそあれだけの成績を出せたことが証明されましたね。
打率 | 打点 | 本塁打 | OPS | タイトル |
0.311 | 115 | 32 | 0.915 |
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※太字はリーグ最高(タイトル獲得)
1970年(プロ13年目・34歳)
1970年の長嶋茂雄さんと言えば、やはり日本シリーズでの『3打席連続アーチ』でしょう!
この時の相手はロッテで、場所は東京スタジアムでした。
- 10月31日(第3戦)延長11回表・・・レフトへの2ラン
- 11月1日(第4戦)1回表・・・レフトへの2ラン
- 11月1日(第4戦)3回表・・・レフトへのソロホームラン(その前の打席で王貞治さんがホームランを打っていたのでアベック本塁打となる)
※第4戦は5-6で敗れ、第5戦で勝利し巨人は6連覇を達成しました。
ちなみに、この年の日本シリーズで長嶋茂雄さんは歴代1位となる日本シリーズMVP通算4回(1963年・1965年・1969年・1970年)受賞という快挙を遂げました!
※参考記事:Wikipedia『長嶋茂雄』・スポニチアネックス『長嶋さんは2試合に渡っての3打席連発…V6達成した1970年』
日本シリーズでは誰かしら主砲クラスが1人ブレーキになるという傾向が見られますが、そんな大舞台で連続でホームランを打つあたり、やはり長嶋茂雄さんの勝負強さとスター性が発揮されましたね。
日本シリーズでの3連続本塁打は、後に2015年の日本シリーズでヤクルトスワローズの山田哲人選手もタイ記録を残してしています。
※山田哲人選手は1試合連続3本塁打王とのことで、こちらは史上初だそうです!
どちらもプロ野球界を代表するスーパースターらしく、大舞台でも素晴らしい成績を残していますね。
打率 | 打点 | 本塁打 | OPS | タイトル |
0.269 | 105 | 22 | 0.782 |
|
※太字はリーグ最高(タイトル獲得)
1971年(プロ14年目・35歳)
1971年の長嶋茂雄さん、また2つ偉大な記録を達成しました!
2000本安打記念のボールについての長嶋茂雄さんは次のように語っています。
『記念のボールなんてひとつもないよ。とっておく気もないな。すぎたことをいつまでも覚えていても仕方がない。オレはいつも“あした”に生きるんだ』
※参考記事:スポーツ報知150周年『【巨人・今日は何の日】長嶋茂雄の2000安打記念球どこへ』
さすが、プロという厳しい世界でスターとして輝く長嶋茂雄さんらしく『ひたすら前を向く』姿勢がよく表れていますね!
←筆者は記念として保管しておくタイプです・・・(^^;)
打率 | 打点 | 本塁打 | OPS | タイトル |
0.320 | 86 | 34 | 0.976 |
|
※太字はリーグ最高(タイトル獲得)
1972年(プロ15年目・36歳)
1972年の長嶋茂雄さんについて、『まさに長嶋茂雄さんならでは』と思わせるエピソードがあります。
5月12日の大洋ホエールズ(現・DeNA)戦で右手に死球を受け、右手小指付け根を亀裂骨折し3日間休んだ時の事でした。
※3日間の内1日は雨天中止だったので、実際の欠場は14日の大洋戦のみだったそうです。
この時、球団側や死球を当てた坂井勝二投手に対して抗議が殺到したため、長嶋茂雄さんにお見舞いとして豪華なお花と果物を差し入れしたそうです。
『今まで頭に死球を当てた際は球団同士でお見舞いを贈るという習慣があったが、頭以外の死球で見舞いをもらったのは初めてでしょう』と、当時の佐々木代表がコメントしていたそうです。
5月16日の中日ドラゴンズ戦で早々にスタメン復帰したのですが、その時に長嶋茂雄さんは患部に目立たない色の絆創膏を貼っていたそうです。
長嶋茂雄さんはこう語っています。
『プロである以上、勝負の場に立ったら、ケガのことで同情されたくない。はっきり分かるような姿で出ていくのは失礼だからね』
そして『だが、打席に立ったら痛いもクソもない。打って打って打ちまくるだけさ』と、18日に5号・20日6号・さらに21日には3本塁打(3本ともすべて2ラン!)で9号と大活躍しました。
まさに有言実行の長嶋茂雄さん、カッコイイですね!
※参考記事:週刊ベースボールONLINE:『死球の長嶋茂雄に届いた異例のお見舞い?/週べ回顧1972年編』
打率 | 打点 | 本塁打 | OPS | タイトル | CM |
0.266 | 92 | 27 | 0.836 |
| 日本強化精麦協会ポスター |
1973年(プロ16年目・37歳)
1973年と言えば、やはり巨人の9連覇(V9)・・・ですが、長嶋茂雄さんは日本シリーズでは一塁コーチとしての出場でした。
10月11日の阪神戦の守備の時、打球を右手薬指に当て骨折、残り試合の欠場を余儀なくされたためでした。
ですが、個人記録としては9月16日中日ドラゴンズ戦で2000試合出場(史上6人目)という記録を達成しました!
打率 | 打点 | 本塁打 | OPS | タイトル |
0.269 | 76 | 20 | 0.74 |
|
1974年(プロ17年目・38歳)
シーズン中の8月6日中日ドラゴンズ戦で1500打点(史上3人目)を達成、そして史上唯一となる『入団から引退まで現役全シーズンのベストナイン受賞』という快挙も達成しました!
そしてついに1974年10月14日、長嶋茂雄さんは現役を引退しました。
中日ドラゴンズとのダブルヘッダーとなった第1試合目に現役最後の本塁打となる15号2ランを放ちました。
またこの試合で4番に座った王貞治氏も7回裏に49号3ランを打ち、通算106回目のONアベック本塁打を記録しました!
第2試合は『四番・サード』で出場、その時のオーダーは捕手・森昌彦、遊撃・黒江透修というV9メンバーの起用でした。
試合後に長嶋茂雄さんの引退セレモニーが行われ、ファンへの挨拶での『我が巨人軍は永久に不滅です』は今でも有名なフレーズとなっています。
引退セレモニーでの長嶋茂雄さんのスピーチをどうぞご覧ください!
打率 | 打点 | 本塁打 | OPS | タイトル |
0.244 | 55 | 15 | 0.675 | ベストナイン |
現役引退後の長嶋茂雄
現役を引退してからの長嶋茂雄さんは、2期に渡り巨人監督を務め、2003年のアジア選手権で野球日本代表チームの監督を務め2004年のアテネ五輪への出場権を獲得しました。
しかし、2004年の3月に脳梗塞で倒れ入院、その後はリハビリをしながら少しずつ公の場に姿を現すようになりました。
現役引退後の長嶋茂雄さんの活動を軽く振り返ってみましょう。
第1次巨人監督時代
1974年11月、長嶋茂雄さんは巨人の監督に就任しました。
長嶋茂雄さん自身は数年間はコーチなどを経験して勉強したかったようですが、チーム事情もあり監督就任の運びとなり、この時の背番号は『90』でした。
第1次長嶋監督時代の成績は以下の通りです。
- 1975年(39歳)・最下位(球団創設以来初)
- 1976年(40歳)・リーグ優勝
- 1977年(41歳)・リーグ優勝
- 1978年(42歳)・リーグ2位
- 1979年(43歳)・リーグ5位
- 1980年(44歳)・リーグ3位
残念ながら、チーム低迷の理由から長嶋茂雄さんは1980年に事実上監督を解任となってしまいました。
第2次巨人監督時代
長嶋茂雄さんは1993年から再び巨人の監督として背番号『33』で指揮を執り始めました。
監督就任となった1992年11月のドラフト会議で当時4球団が指名した石川県星陵高校・松井秀喜氏を巡りくじ引きが行われましたが、さすが長嶋茂雄さん!
残ったクジには見事に『選択確定』の文字があり、松井秀喜氏を獲得出来ました。
クジを開いた時の長嶋茂雄さんのこのポーズが印象的ですね。
また、監督就任当時の背番号は33でしたが2000年より『背番号3』となり大きな話題となりました。
やはりプロ野球ファンから見れば『長嶋茂雄=背番号3』の姿は嬉しいものだったでしょう!
ちなみに第2次長嶋監督時代の成績は以下の通りです。
- 1993年(57歳)・リーグ3位
- 1994年(58歳)・リーグ優勝・日本一(正力松太郎賞を受賞)
- 1995年(59歳)・リーグ3位
- 1996年(60歳)・リーグ優勝(最大11.5ゲーム差をひっくり返してのリーグ優勝。『メークドラマ』を完成させた)
- 1997年(61歳)・リーグ4位
- 1998年(62歳)・リーグ3位
- 1999年(63歳)・リーグ2位
- 2000年(64歳)・リーグ優勝・日本一(対戦相手は王貞治監督が率いる前年日本一のダイエー(現・ソフトバンク)で、ON対決として注目を集めた)
- 2001年(65歳)・リーグ2位
2001年に監督を引退してからの長嶋茂雄さんは『株式会社読売巨人軍専務取締役終身名誉監督』に就任しました。
巨人監督退任以降
- 2002年(66歳)・『宮崎市名誉市民』『佐倉市名誉市民顕彰』『立教学院栄誉賞(第1号)』を受賞
- 2004年(68歳)・アテネ五輪野球日本代表チームの監督に就任
先述した通り、2003年のアジア選手権で優勝しアテネ五輪への出場権を得たものの2004年3月に脳梗塞で倒れ入院しました。
その後はリハビリをしながら少しずつ公の場に姿を現すようになりました。
- 2005年(69歳):7月3日、東京ドームでオーロラビジョンで姿を現す
- 2006年(70歳):『長嶋茂雄ドリームプロジェクト』に特別ゲストとしての参加し、子ども達への野球指導を行った。
- 2007年(71歳):日本経済新聞の『私の履歴書』に登場
- 2010年(74)歳:阿川佐和子氏と『週刊文春』誌上で対談
- 2012年(76歳):キューバ友好勲章受賞
- 2013年(78歳):国民栄誉賞を松井秀喜氏と同時受賞。
5月5日試合前の松井の引退セレモニーでスピーチを行い、始球式で片手でバットを持ち打席に入った。
※この時の投手に松井、捕手は巨人監督の原辰徳氏、球審は元首相の故・安倍晋三氏が務めた
その他、『千葉県県民栄誉賞』『佐倉市民栄誉賞』も受賞。 - 2014年(78歳):東京都名誉都民の授与、日本プロ野球名球会の理事を退任し顧問に就任。
- 2021年(85歳):オリンピック開会式、国立競技場での聖火リレーに王貞治氏、松井秀喜氏とともに参加。日本国政府より文化勲章を授与。
- 2022年(86歳):6月3日の巨人ーロッテ交流戦(東京ドーム)を観戦、ロッテの佐々木朗希選手と歓談
超人レベルのユーモアセンス!~笑わずにはいられない『長嶋伝説』特集~
長嶋茂雄さんに関する笑えるエピソードを挙げたら、それだけで1記事出来てしまいますね(笑)。
なので、ここでは中でも筆者がツボにハマって涙が出るほど笑ってしまった『長嶋伝説トップ10』を取り上げさせていただきます。
- 『鯖(さば)という字は魚偏にブルーと書くんですね』
- 『I Live in TOKYO』過去形にする時の回答が『I live in EDO』
- 肉離れの事を『ミートグッドバイ』と表現
- 田園調布に新居を建てたばかりの時、試合後にお手伝いさんに『すいません、長嶋です。僕の家どこですか?』と電話で聞いた
- せんだみつお氏が飲酒運転事件を起こした時のせんだ氏への電話にて『大丈夫?死刑にならない?』
- 遅刻の言い訳『いやあー電車が行き先を間違えちゃってねえ』
- ホテルでのチェックインで職業欄に『長嶋茂雄』と記入
- 高校時代に急激に身長が伸びたため『まさか、俺、背の伸びる病気じゃ・・・』と心配して保健室へ行った
- 自分からビートたけし氏をゴルフに誘っておきながら、当日ゴルフ場でたけし氏に会った時の一言『おや、たけしさんも今日、ゴルフですか?』
- 槙原寬己氏が完全試合を達成した試合で、試合中に『槙原を緊張させないためにパーフェクトと言っちゃダメだぞ』と言ったがその中に槙原本人がいた
まだまだ笑わずにはいられないエピソードが多々あるので、参考になった記事などのリンクも載せておきます!
エントピ『【ミスター】長嶋茂雄の笑って泣ける伝説エピソード50連発ご紹介!』
いくつか見た中で選んだ動画がこちらです。
プロフィール
ここまでは長嶋茂雄さんのプロ野球選手としての成績などを見て来ましたが、長嶋茂雄さんのプロフィールを簡単に見てみましょう。
生年月日 | 1936年2月20日 |
出身地 | 千葉県印旛郡臼井町(現・佐倉市) |
身長 | 179cm |
体重 | 76kg |
打席 | 右投・右打 |
ポジション | 三塁手 |
野球殿堂入り | 1988年 |
趣味 | 映画・読書・将棋 |
※情報引用元:Wikipedia
長嶋茂雄さんの名字『長嶋』と『長島』について
筆者は『長嶋』の方しか知らなかったのですが、『長島』という表記もあるそうです。
(そう言えば、長嶋茂雄さんの次女・長島美奈さんは『長島』ですね)
長嶋茂雄さんの苗字の表記には『長嶋』と『長島』の2種類がありますが(嶋は島の異体字)、どちらも時期によって本名として正式に使用されていたそうです。
出生時の本名は『長嶋』でしたが、プロ入り前は『長嶋』と表記するメディアと当用漢字に置き換えて『長島』と表記するメディアが混在していました。
1958年のプロ入りの際に記者クラブと本人の合意により、報道の際は表記の簡単な『長島』で統一することに決まり、現役中は『長島』をサインに使用するようになったそうです。
引退後の1992年に二度目の監督就任が決まった際には、本人の要望により報道でも『長嶋』表記が採用されることになりました。
読売新聞社によれば、1999年にゲン担ぎのために現役時代に広く知られていた『長島』に改名し、その時点で戸籍上の本名が『長島』になったそのことです。
このため、2021年に文化勲章を受章した際には本名『長島』と表記されており、芸名等として『長嶋』が併記されていたそうです。
※参考元:Wikipedia『長嶋茂雄』
貴重画像!長嶋茂雄と○○氏のツーショット3選
ここでは、長嶋茂雄さんと○○さんとの貴重な画像をご紹介します!
【その1】知将・野村克也氏とのツーショット
ご存じ、ノムさんこと故・野村克也さんとのツーショットです!
『長嶋茂雄さんが太陽なら自分は月見草』という表現でご自身を地味な存在で表現されていたりと、対照的な存在の印象が強かった野村さん。
ですが、このようなツーショットは良きライバル同士としての微笑ましい光景ですね。
【その2】通算2000奪三振の猛将・金田正一氏とのツーショット
『かねやん』の愛称で知られている故・金田正一氏。
現役引退後はロッテの監督も務めていたので、現役時代を直接見ていなくても監督としてのユニフォーム姿を目にしていた人も多いのではないでしょうか。
『猛将』としての血気盛んなイメージがありましたが、とても和やかな雰囲気が感じられるツーショットですね!
【その3】パ・リーグ注目度NO.1・ロッテ佐々木朗希投手とのツーショット
こちらは2022年4月10日に28年振りとなる完全試合を達成した、千葉ロッテマリーンズ佐々木朗希投手とのツーショットです。
昭和を代表するスーパースターと令和を代表する選手になるであろうスーパースター、まさに大物同士の顔ぶれですね。
もし佐々木朗希投手と現役時代の長嶋茂雄さんが対戦したらどんな結果になったのでしょうか?
ここでは長嶋茂雄さんの現役時代の記録など若い頃を取り上げましたが、他にも俳優など芸能人の若い頃に関する記事もあるので良かったらこちらもご覧ください。
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